【武侠を語る】
ツイ・ハーク監督インタビュー 2005年8月
(聞き手:トニー・レインズ)
──映像作家として香港で活躍し始めたころから武侠作品に取り組んでいますね。最初がテレビ・シリーズの「金刀情侠」。そして長編デビュー作の『蝶變』も武侠ものでした。それ以降も、このジャンルの作品を数多く監督なさっていますが、武侠映画の変遷をどう見ていらっしゃいますか。
武侠小説の起源は唐の時代──西暦でいうと7世紀──にさかのぼりますが、実在の刺客や侠客について記録した文献なら、それ以前からあります。中国映画において、武侠の歴史は大変に長い。サイレント映画の時代から存在しますからね。僕はほかの監督と比べて、武侠とのつきあいが長いので、その移り変わりをじっくり観察してきました。武侠映画が現在のようなスタイルに発展した背景ついては僕なりに自説があって、少なくとも3つの要素が絡んでいると考えています。ひとつはストーリーに深みが増したこと。これは映像技術の進化と連動していると思います。ふたつ目は武術そのものが格段に向上したこと。いまや旧式のスタイルはすっかり時代遅れになってしまいました。3つ目がロマンの要素が加わったことです。これによって武侠の世界を独創的、神秘的に描くことが可能になりました。こうした要素が相互作用しながら、武侠映画を進化させてきたのでしょう。キーパーソンとしては、キン・フー、チャン・チェ、ブルース・リー、サモ・ハン、ジャッキー・チェン、ジェット・リー、ユエン・ウーピンなどが挙げられると思います。彼らはそれぞれに独自のスタイルを確立していますが、そこに先ほどの3つの要素が加わって、その時代を象徴する武侠作品が誕生したのだと思います。
1940年代後半から1950年代にかけて、香港のウー・パン監督が現役の武術家を集め、ウォン・フェイフォン主演のアクション・シリーズを撮りました。香港のアクション映画に本格的な武術が登場するのはこれが初めて。ウー・パン監督の画期的な力作は大変な人気を呼び、マーシャル・アーツというジャンルを広めるきっかけになったんです。マーシャル・アーツ映画の成功にともなって、香港映画界に多くの才人が集まってきました。ユエン・シャオティエン(ユエン・ウーピンの実父)やユー・ジムユン(ジャッキー・チェンやサモ・ハンの師匠)はその代表。そして、香港アクション映画の成長期には新世代のスターたちが次々と誕生しました。チン・シウトンやスティーブン・トン・ワイは撮影所で育ったといっても過言ではありません。
僕が武侠映画を見るようになったのは、映画館にこっそり通い始めた5歳のころからですね。当時、香港映画はまだ市場が小さく、手法も技術もかなり未熟でした。でも子供ですから、そんなことは気にしません。当時は映画ばかり観ていて、観終わったあとは友達とストーリーについて話し合いましたよ。武侠映画に出てくる主人公を真似たり、チャンバラごっこをしたりしてよく遊んだものです。
武侠映画が飛躍的に進歩したのは1960年代なかば。キン・フーとチャン・チェが武侠ものを撮るようになったんです。ふたりの作風は対照的でしたが、どちらも武侠映画の幅を広げてくれたことには変わりない。チャン・チェ作品は写実的。激しく骨太なアクション、ヒロイズムや男の友情が身上でした。それに対してキン・フー作品は文学的でロマンチック。史実、映像美、リズム感が重視されていました。観客はそのスタイリッシュな映像に圧倒されたものです。両巨匠の作品は今でも、僕たち現役世代の映像作家に大きな影響を与えています。
1970年代はブルース・リーが台頭したことで、“クンフー”という言葉が欧米にも浸透しました。リーの持ち味は俊敏な動きとそれを支える哲学(武道に対する独自の姿勢)。彼のスタイルはすぐに模倣されましたが、リーを超える者は誰一人いませんでしたね。ブルース・リーに関していちばん印象的だったのは、自信過剰ともとれる堂々とした態度、そして、自分の考えを主張するときの自信に満ちた表情です。ブルース・リーがファイト・シーンを実演したことで、クンフー映画のイメージは一新し、現代劇としても受け入れられるようになりました。そのころ、映画会社のショウ・ブラザースに所属していたラウ・カーリョンも新しい流れを起こしていたんです。中国南部の伝統武術にはさまざまな流派がありますが、その流派間の争いをドラマに仕立てました。さらに、京劇出身のユエン・ウーピンがアクロバティックな武芸を生かし、チャン・チュやブルース・リーの作品に新風を吹き込んだのです。ユエン・ウーピンとサモ・ハンは武侠映画に革命を起こした両雄。ふたりは京劇の伝統とブルース・リーの斬新なスタイルを融合させ、1970年代後半の映画界を席捲しました。
先ほど武侠映画の変遷をどう見るかというご質問を受けました。わが身を振り返って正直に言うと、テレビシリーズの「金刀情侠」では先人の武侠作品を模倣していただけですね。それに対して、長編デビュー作の『蝶變』では自分流の手法を確立しようと試みました。シンプルだけれど、リアルなアクションを極めようと思っていたんです。映画監督としては幸先のいいスタートを切ることができたんですが、当時はほかのジャンルにも興味があったので、武侠ものを追求しようという気持ちはあまりなかったんですよ。初の大作映画となった『蜀山奇傅・天空の剣』では路線を一変して、視覚効果やシュールなビジュアルを用いた新しいタイプの武侠映画を作ろうと考えました。
1980年代はジャッキー・チェンとサモ・ハンの時代。両者とも、ブルース・リー式の迫真のアクションとバスター・キートン流のコメディを組み合わせて成功した。当時は中国本土からも非常にパワフルな武侠映画が誕生しました──チャン・シンイェン監督の『少林寺』です。この作品では古武術の流れをくむ伝統的なアクションが印象的でした。作品そのものは世界的にヒットしたんですが、残念ながら“一代で終わってしまった”という感じですね。ああいう作品では武術の達人を一堂に集めなければなりませんから、後に続こうとする映像作家が出てこなかったんでしょう。
そのころ、チン・シウトン監督の幻想的なアクション作品が最盛期を迎えていました。『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』はその金字塔と言っていい。チン・シウトンはひとつの場面に複数のアクションを詰め込んで、同時進行させることを好むんです。スローモーション撮影も彼のトレードマークになりました。編集の仕方も独特で、観客は意表をつかれてしまう。ひとつのアクションが終わらないうちに、次のアクションを畳みかけるといった具合なんです。それから、空中でのアクションもチン・シウトン作品の特徴ですね。僕は製作業も手がけているので、チン・シウトンがキン・フーのようなベテランと組んだらどうなるだろうと興味津々でした。プロデューサーとして参加した『スウォーズマン/剣士列伝』で、ふたりを組ませることができたときは、天にも昇る気持ちでしたよ。あいにく、キン・フーは健康上の理由で早々に降板してしまいましたが、完成した作品は新世代の武侠映画として受け入れられ、香港を始めとする世界各国で“クンフー・ブーム”が再燃しました。
素手だけで戦う格闘シーンが姿を消すようになったのは1980年代の終わりごろだったと思いますが、こういう流行り廃りは当然の流れと言えるでしょう。これは僕の自論なんですが、ひとつの手法はいちど廃れた後で突然変異を起こし、再生する。先ほど、武侠映画を進化させてきた3つの要素について触れましたが、古くなった手法もそうした要素と絡みながら、また新たな活路を見出だすのではないでしょうか。
1980年代の後半から、ユエン・ウーピンとともに『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズに取り組みました。このシリーズは(医師にして武道家の)ウォン・フェイフォンの英雄伝をもとにしています。子供の頃からなじみのある英雄伝でしたから、映画化にあたっては新鮮味とロマンチックなムードを加えようと考えたんです。また、素手だけで戦う従来のクンフーを一新し、繊細でドラマチックなスタイルを確立したいと思いました。このスタイルは後々にまで影響を与えたようです。映画やテレビシリーズでもよく見かけましたからね。
ここ10年ほどは武侠映画の停滞期という気がします。これといった進展はほとんどありませんが、だからこそ改良と創造の余地がたっぷりある。とはいえ、アン・リー監督の『グリーン・デスティニー』、チャン・イーモウ監督の『HERO』『LOVERS』は例外ですね。後者2作はビジュアルが圧巻で、とてもロマンチックな趣がある。『グリーン〜』はヒューマニズムにあふれ、哲学的で、キン・フー作品の伝統が色濃く出ています。それにしても、この10年あまり、画期的な武侠映画が出てこなかったのが不思議でなりません。それまでは進化の連続でしたからね。
でも、この『セブンソード』はなかなか興味深い一作になると思いますよ。原作の「七剣下天山」は僕が子供のころからすでに有名で、著者の梁羽生が描く武侠の世界は昔から好きでした。武侠小説を翻案する場合は、まず最初に内容を整理することが必要なんです。なにしろ、武侠小説は大半が長編で、いくつものエピソードが複雑に絡み合っている。登場人物も多く、それぞれが複雑な事情を抱えています。今回は登場人物のバックグラウンドを簡潔にし、そのぶん、後半のアクションの見せ場を増やしました。この作品で描いた武侠の世界は過去の監督作で描いてきたものとは異なっています。もっとリアルで、人間臭く、史実を交えた世界です。アクション演出についてもリアリティーを重視し、役者の身体能力を超えないように配慮しました。ですが、ストーリーや登場人物の背景には現実を超えた伝説的な要素を入れてあります。
──7本の剣はどのようにデザインしたのですか。7本とも実際の戦闘で使えるのでしょうか。
最初にデザインしたのは、7本のなかで最もパワフルな剣。それさえ決まれば、あとの6本については形状も材質も自然と限られてくるので、比較的スムーズにいきました。どの剣もブロンズや鋼で精錬されていますから、リアルで重々しく見える。実際、7本とも真剣なんです。実戦でも使えると思いますよ。
──今回の殺陣はラウ・カーリョンと決めたそうですが、どういった点に注意したのでしょう? 剣術を用いた戦闘シーンを撮影するのに何日くらいかかったのですか。
殺陣については、ストーリーの流れに沿うかたちで決めていきました。ラウ師匠にはアクション・シーン全般の演出と役者の武術指導をお願いしたんです。今回は、7人の剣士が一丸となって戦うところが最大の見せ場。ですから、戦闘シーンでは剣士一人ひとりの得意技を紹介しながら、シーン全体の演出も考えなくてはなりません。もっとも心を砕いたのは、限られた時間のなかで各剣士の戦いぶりとチームとしての戦いぶりをバランスよく見せること。今までにない斬新なアクション・シーンを演出したかったので、7人それぞれの戦闘スタイルについては検討に検討を重ねました。撮影期間の75%くらいはアクション・シーンに費やしましたね。
──香港の批評家はあなたの武侠作品に“政治的な”メッセージや含みがあると指摘しているようですが、あえて政治色を出すようにしているのですか。
武侠文学は現代社会を映し出す鏡だと思っています。たしかに、ストーリーそのものはロマンスやファンタジーにあふれているし、登場人物もおとぎの世界から抜け出てきたような趣があります。武侠文学の大半は社会派小説とはほど遠いのですが、それでも一部には、著者の思想を反映したものや社会正義を問うものもあるんです。つまり武侠文学は娯楽だけでなく、モラルや正義について考える場も提供してきたと言えるでしょう。個人的には、武侠映画をとおして時代の空気を反映させたいと思っています。そもそも映画というものには、監督の世界観が多かれ少なかれ出るものですから。時代とともに武侠作品も変化しなくてはなりません。今回の『セブンソード』では主人公の剣士たちが悪と戦い、人間として成長していく姿に未来の社会への希望を重ね合わせたつもりです。
──原作には男性として出てくる人物を、女優のチャーリー・ヤンに演じさせたのはなぜでしょう?
たしかに、チャーリーの役は原作では男性です。それをあえて女性にしたのはアクセントがほしかったから。そうでないと、七剣の顔ぶれに変化がつきません。けれども、七剣のなかに紅一点を加えるというアイデアは原作からヒントを得たものなんです。原作の小説には二世代の七剣が登場します。若い世代のほうには、晦明大師の剣を受け継いだ女性剣士がひとりいる。原作を翻案する際には簡略化しなくてはならない部分がいくつかありましたが、二世代の七剣を一世代にまとめたのもそのひとつです。
──中国文化における武侠は、アメリカ文化における西部劇に近いと思うのですが、武侠がこれほど長く愛されてきた理由はどこにあると思いますか。
西部劇よりSFに近いのではないでしょうか。西部劇は限られた時代を背景にしているし、幻想的な要素もあまりないでしょう。それにひきかえSF作品は武侠に相通じるところがある。と同時に、対照的な部分もありますね。SFでは人類と科学の関係性がテーマですが、武侠は基本的に反科学主義。むしろ、人間の能力の限界を悟ることがテーマだったりします。武侠作品は仏教や儒教などの教えを採り入れながら、独自の世界を構築している。伝説、神秘の山といったシンボルが多く出てくるのも特徴です。一方、SFの世界では科学の脅威(クローン技術、遺伝子操作、サイバネティックスなど)が背景にあります。このふたつのジャンルは誕生の過程も、進む方向も違うけれど、大きな共通点がひとつある──それは、物質主義の世の中であっても向上心を失いたくないという人間の願望を描いている点です。だからこそ、武侠もSFも世代を超えて愛されているのではないでしょうか。時代は変わっても、人間の夢や理想は変わらない。どちらのジャンルもそれを描いているからこそ、私たちを魅了し続けるのだと思います。
50年に中国で生まれ、ベトナムで育つ。13歳で8ミリフィルムの実験映画を撮り始める。66年に家族と共に香港へ。69年にテキサスのサザン・メソジスト大学に入学し、70年にテキサス大学に編入、映画を専攻する。卒業後はニューヨークへ移り、チャイナタウンのケーブルテレビなどで働く。
香港へ戻ったのは77年。電視広播有限公司で監督と製作の仕事をした後、テレビ局のTVBに監督として入社する。この時期に演出したテレビドラマ《金刀情侠》は名作として知られ、彼の映画人生の原点となった。映画会社がその才能に目をとめ、79年に長編時代劇映画『蝶變』で映画監督デビュー。その独特の風格と習熟したテクニックにより、『蝶變』は当時の香港にあふれていたクンフー映画とは一線を画す異色作となった。香港ニューウェーブの旗手の一人として高い評価を得た彼は、続いて多数の映画を送り出す。3作目の『ミッドナイト・エンジェル 暴力の掟』(80)のオリジナルは上映禁止になり、実質的に撮り直したバージョンがリリースされた。5作目の『蜀山奇傳 天空の剣』(81)は香港で初めて最新SFXを取り入れた映画である。
84年、妻のナンサン・シー(施南生)とフィルム・ワークショップ(電影工作室)を設立、プロデューサー業にも進出する。創業第一作『上海ブルース』(84)は広く好評を得、興行的にも大成功をおさめた。同社からはジョン・ウー(呉宇森)、チン・シウトン(程小東)、カーク・ウォン(黄志強)といった多数の監督たちの作品、およびツイ・ハーク自身の監督作が多数送り出されてきた。91年には2本のチャリティー映画『豪門夜宴会』(未)、『ツイン・ドラゴン』で共同監督の1人に名を連ねている。
彼の仕事はアニメーションからCGIファンタジー、英語映画までジャンルとスタイルは多岐にわたる。また、巨匠キン・フー(胡金銓)の後継者として武侠映画の歴史に新たな時代を築き、斬新な風格を確立。後続の多くの武侠映画にとって、ツイ・ハーク作品を超えることはひとつの目標である。04年には香港の監督として初めてカンヌ映画祭の審査員に選ばれた。