ターザンは、まさにいまの時代が求めている新しいヒーローなのだ。
1957年生まれ。経済アナリスト、獨協大学教授。専門分野はマクロ経済学、計量経済学、労働経済、教育計画。テレビ朝日「ニュースステーション」のレギュラーコメンテーターなどに出演し、現在は読売テレビ 「情報ライブ ミヤネ屋」、TBS「がっちりマンデー」などにレギュラー出演中。ミニカー他、様々なコレクターとしても有名。
ボクが子供の頃、ターザンはもちろんヒーローだったが、同時に仲間でもあった。ボクらも、ターザンと同様に野山を駆け巡っていたからだ。
しかし、1980年代以降、金融資本主義が世界に蔓延するなかで、ターザンは影が薄くなった。資本主義社会の勝者・ヒーローは、カネを稼いだ者となったからだ。
摩天楼のペントハウスに住み、高級車を乗り回し、美女をはべらす金満家が、世の中の憧れの的となったのだ。資本主義は、カネを奪い合うゲームだから、結果的に一番稼いだ者が、一番有能だとみなされたのだ。
しかし、2008年に発生したリーマンショックは、世間の認識を一変させた。金融工学を駆使して大金を稼ぐエリートたちがやっていたのは、バクチと詐欺と泥棒に過ぎなかったことが、白日の下にさらされたのだ。
いざメッキがはげてみると、いままで憧れの対象だった金融エリートの正体は、醜く太ったカネの亡者だった。
人間は、ヒトである前に、動物だ。だから、動物として強くあらねばならない。健全な精神は、健全な肉体に宿る。ターザンの鍛え抜かれた肉体のうえに、彼の妻への愛、人類への愛、そして自然への愛が存在しているのだ。だから、ターザンは、まさにいまの時代が求めている新しいヒーローなのだ。
肉体改造に成功して、健全な肉体を手に入れたボクが言うのだから、間違いない。
2016年の今、我々が本当に求めているのは、生きている実感と身体性の回復なのだ。だからこそ新しいターザンは僕達の新しいヒーローなのだ。
1975年生まれ。思想家、事業家。コンサルティング会社をはじめ、複数の事業・会社を運営する傍ら、執筆・講演活動を行っている。著書「10年後世界が壊れても、君が生き残るために今、身につけるべきこと」「そろそろ会社辞めようかなと思っている人に、一人でも食べていける知識をシェアしようじゃないか」。
このターザンは21世紀の新しいヒーロー像であり、我々の知っているターザンの物語ではない
ターザンといえば、僕らの世代が記憶しているのは、「アー、アアーー」と叫びながら木から木へと飛び移る原始人のイメージだ。
裏庭の森やジャングルジムでターザンのまねをしては、ずっこけて笑い合っていたのが小学生のときの良き思い出である。
多くの人が住んでいた当時の郊外は、まだ家もまばらで森が広がっていたし、そんな時代には、ターザンのように、ジャングルでも生き残ることのできる肉体的な強さ、つまりサバイバビリティがヒーローの証だった。同時期にヒットしていたポパイも同じ強さと勇気を持っていた。
さて、時代も下り、経済成長に比例して、郊外の森林は切り崩され団地が次々と建ち並んでいった。身近なジャングルは姿を消した。僕たちは受験戦争と就活難をくぐり抜け、新しい生活を求めて都会に出て行った。頭が良く、カネを持つものが偉い、それが都市のルールだ。いつしか肉体的な力を軽視するようになった。
土に直接触れることも、大地に足をつけて歩くこともなく、 アスファルトの歩道を通って高層ビルとマンションの往復のなかで体に電磁気を帯びながら、とても便利で、とても不健康な生活を送っている。
僕達は物質的な豊かさに囲まれて、もはや餓えて死ぬことはない。つまり生存欲求は満たされている。 満たされていないのはむしろ承認欲求だ。自分が自分である感覚だ。日々、余剰なモノに囲まれながら、資本に飲み込まれることを恐れ、AI(人工知能)がいつか人間を超える日、つまりシンギュラリティ問題を恐れながら生きている。数字と機械が自分を飲み込んでゆくのを怯えながら都市生活が与えてくれる刺激でその不安を紛らわせてで暮らしている。もう森でターザン遊びをしたことはすっかり忘れている。
僕達が知っている昔のターザンは、ジャングルで生まれ育ってそこで生きた原始的ヒーローだった。
ところがこの新しいターザンはまったく違う。都市で生活し、都会で成功した上で、“あえて”ジャングルに戻るのだ。新しいターザンは、英国貴族で、美しい妻を持ち、端正な顔立ちと強靭な肉体、知性と教養を備え持つ。彼は、今の人々が憧れるすべてを持っているように見える。その彼が求めるものは、一周回って、あえてジャングルへ戻ること、原始的(プリミティブな)環境の中で、本当の人間性を取り戻すことなのだ。そしてそれは現代を生きる僕達すべてが心のなかで欲しているもののように思える。
2016年の今、我々が心のなかで本当に求めているのは、カネではない、モノでもない、いいね!で満たそうとする薄っぺらい承認欲求でもない。機械化され、数字化されるこの抽象化された世界において本当に求めているのは、生きている実感と身体性の回復なのだ。だからこそ新しいターザンは僕達の新しいヒーローなのだ。
少年たちの夢をさらに100倍ぐらい増幅させた、期待どおりのヒーローとなって帰ってきてくれる。
1944年生まれ。作家。主な執筆作品に「怪しい探険隊」シリーズ、「犬の系譜」( 吉川英治文学新人賞)、「わしらは怪しい探険隊」シリーズ、「岳物語」、「アド・バード」(日本SF大賞)、など。映画『白い馬』では、日本映画批評家大賞最優秀監督賞ほかを受賞。
1944年生まれのぼくの世代は大人たちと共に日本の戦後の困窮と、いい知れぬ敗北感のなかをトボトボ歩いてきた。大人たちは、どちらかといえば頽廃気味の、子供にはちょっと近づけないようなあらくれとすさんだ気配をもって暗闇の空気のなかにいた。
その頃、ぼくたち子供が文句なしに勇気づけられた物語に『ターザン』があった。当時の感覚としたらどこか知らない異国を舞台にした、今でいえばSFの世界に近い、魅力的な、勇気と挑戦欲と好奇心を鼓舞する、文字通りの「痛快活劇」の世界で、ぼくたちは誰もがターザンになることを目指した。
幸い「国破れて山河あり」そのものの荒れた自然が町の近隣に残っていたから、ぼくたちは放課後に、本当の「ターザン」のように少年規模のジャングルに入り込んでいくことができた。ターザンといったら「アアアアー!」と叫びつつ樹の枝から下がった蔓から蔓へと飛ぶように飛んでいかねばならない。
ぼくたちは縄を持ってきてささやかな基本装置をこしらえた。しかし本物のように軽快に樹から樹へ飛び移っていくことは難しく、うまい奴で低空を数メートルを飛ぶ、という程度で満足しなければならなかった。オトモのチーターも愛するジェーンもいなかったが、ぼくたちの頭のなかには立ち向かってくる凶悪な猛獣の群れが常にいて、それらを一撃のもとにやっつけていたのだった。それは暗い時代の少年たちを確実に元気づける興奮と希望の時間だった。
それから長い年月をへて、まったく思いもつかないようなシチエーションで『ターザン』はぼくたちのもとに姿を表してくれることになった。それも今の時代だから、少年たちの夢をさらに100倍ぐらい増幅させた、期待どおりのヒーローとなって帰ってきてくれるだろう。