エンターテイメント業界きっての重鎮プロデューサー。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ(85,89,90)、『ロジャー・ラビット』(88)、「インディ・ジョーンズ」シリーズ(81,84,89,08)といった時代を超えてヒットする作品を製作しながら、映画ファンにとって明確な一時代を築いてきた。多作な製作キャリアに加えて、映画監督としても『アラクノフォビア』(90)や『生きてこそ』(93)といった忘れがたい作品をスクリーンにもたらし、広く賞賛を浴びている。2015年の大ヒット作『ジュラシック・ワールド』の製作も担当。この作品は世界中で15億ドル以上の興収をあげ、『タイタニック』(97)、『アバター』(09)についで歴代第3位となる記録を樹立した。
ロサンゼルス生まれ。アメリカ人作曲家/指揮者ジャック・マーシャルの息子として生まれ、音楽とスポーツに情熱を燃やしながら成長し、68年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)を卒業。大学時代には陸上競技とクロスカントリーの選手だった。また、大学初のサッカーチームを率い、3年間代表チームの優秀選手に選ばれている。
ピーター・ボグダノビッチ監督の助手として映画キャリアをスタートさせた。すぐに昇進し、時代を超えた名作『ラスト・ショー』(71)ではロケーションマネジャーとなった。そののち、ボグダノビッチ監督の製作補となり、ふたりは協力して有名な『ペーパー・ムーン』(73)や『ニッケルオデオン』(76)などを作り出していった。
ボグダノビッチ監督との連携時代に続き、マーティン・スコセッシ監督の『ラスト・ワルツ』(78)にラインプロデューサーとして参加。音楽への愛情を感じながら、“ザ・バンド”の最後のコンサートツアーを追いかけ、このグループの演奏を未来の世代に残そうとするスコセッシ監督を助けた。78年に、有名な『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)を製作するためにジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグとチームを組んだ。81年に公開されたこの作品は世界中で大きな成功を収め、米アカデミー賞9部門にノミネートされた。同年、未来の妻でありプロデューサー仲間でもあるキャスリーン・ケネディ、そしてスピルバーグとともにアンブリン・エンターテインメントを立ち上げた。次の10年、3人は映画史において最も成功を収めた協力関係を築き上げ、『E.T.』『ポルターガイスト』(共に82)、『グーニーズ』(85)など近代映画において最も愛される作品を世に送り出した。
91年、ケネディとともに自分たちの会社、ケネディ/マーシャル・カンパニーを立ち上げ、ロバート・ラドラムの小説に基づき世界的に大ヒットした「ボーン」シリーズ(02,04,07,12)、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(08)といった高評価を受ける作品を製作し続けている。ふたりの最新作は、16年7月から世界中で公開中のヒット作『ジェイソン・ボーン』である。また、この会社は、自身の個人的な芸術的興味を探求する拠り所となり、ヒット作『コンゴ』(95)や『南極物語』(06)、ESPNフィルムズのドキュメンタリーシリーズ「30 for 30」の1エピソード「Right to Play」(12)などで監督も務めている。
これまでに、M・ナイト・シャマラン監督の『シックス・センス』(99)からゲイリー・ロス監督の『シービスケット』(03)まで多彩な作品を製作し、5度米アカデミー賞にノミネートされるという偉業を達成している。アカデミー賞ノミネートに加えて、その仕事を称えられ、UCLAの卒業生プロフェッショナル・アチーブメント賞/カリフォルニア・メンター・イニシアチブのリーダーシップ賞/権威あるアメリカン・アカデミー・オブ・アチーブメント賞を授与されている。ケネディとともに、08年、全米製作者組合(PGA)より業績を称えられてデイビッド・O・セルズニック賞を授与された。その1年後、ふたりは視覚効果協会の生涯功労賞を受賞。
この業界のベテランプロデューサーは、慈善活動家としてのキャリアでも成功を享受している。スポーツへの愛情に導かれ、10年以上にわたり、アメリカオリンピック委員会のメンバーを務めている。委員会とオリンピック活動への貢献を称えられ、05年にオリンピック・シールドを授与された。その3年後、アメリカ・オリンピック・ホール・オブ・フェームに殿堂入りした。
また、アスリート・フォー・ホープ/フィジカル・フィットネスに関するカウンシル知事会議/米国トラック&フィールド協会を含めた多くの組織で役員を務めている。
12年、ケネディがルーカスフィルム社の会長に就任し、ケネディ/マーシャル・カンパニーの社長としてひとりで事業運営をおこなっている。